フローラさんのおかげで、この庭という場所のおかげで、新年早々大きな滞りが流れた気がします



今月も庭のお便りを、そして朗読のプレゼントをありがとうございました。

元日、子どもたちが外で凧揚げを楽しみ、夫がリビングでうたた寝している中、そそくさとイヤホンをつけて再生ボタンを押しました。

フローラさんの声に全身が包まれた瞬間、あたたかい何かが身体に流れ込んだようでした。

毎日毎日、救いを求めるようにラジオトークの更新を待っていたあの頃と変わらず、フローラさんの声はわたしを安心感で包んでくださいます。

なんて満ちた時間だ…と、元日からしあわせな気持ちになりました。

それから何度も聴いています。

本当にどうもありがとうございます。

フローラさんの発信を追いかけ始めて6年半、庭に入って2年半が経ちました。

本講座もグランディールも、もっと言えば霊視相談(お気持ち制の電話相談)もフェイスブックでのオンラインサロンも、お申し込みできませんでした。(フローラさんとお会いしないお金の講座の動画は購入しましたが)

初めてフローラさんを見た瞬間からすごく惹かれていたのに、(本田晃一さんの講演会の時のお写真です)最初はとても怖かったんです。

フローラさんとお話なんてできない、と。

フローラさんには全てばれてしまう、と直感的に思っていました。

今思えば、取り繕った自分を、何も為していない自分を、自分にも周りにも嘘をついて、ごまかして生きてきたことを自覚するのが怖かったのだと思います。

ですので、本当はフローラさんが一番すきなのに(ストーカーじゃありません💦冷静に、熱烈に、ファンです)フローラさんの発信を毎日見つつも、他でいろいろな学びをしてきました。

中には壺もありました。

そうして、お恥ずかしい話ですが、そうこうしているうちに私が自由に使えるお金はいよいよなくなってしまいました。(専業主婦でしたので、独身時代の貯金を講座代等に充てていました)

自分がやりたいことをするためにも「仕事をしなくては」、「稼いでみたい」などと思いつつ、そして、本当は本講座を受けてみたいのに、受けられたのに、他所で壺を買ってしまった自分を責めつつ、何年も行動できずにいました。

牛歩でしか進めない自分にがっかりしながら、それでも少しずつ少しずつ進んで、昨年ようやく小さな一歩を踏み出すことができました。

そして、この年末年始、1月の庭の願いについて思い巡らす中でやっと分かったことがあります。

これまで何度も「やりたいことリストを書く」だとか「未来のイメージングする」だとか「死ぬ前にやるとしたら?」だとかのワークをして、その度あまり具体的な望みが出てこないのは、「望みに蓋をしてきた結果体験不足で、知らないから」だと思っていました。

そしてまた、「ある程度今に満足しているから」だとも思っていました。

確かにそういう面もあるのですがでも、そうじゃなかった、ということが分かったんです。

本音に向き合う、とか子どもの頃を思い出す、とか制限がなければ何を望む?などのよくあるワークもやってきましたし、そもそも学び始めたのは自分を知るためでしたので、学びを通して自分のことも少しずつ分かるようになりました。

昔に比べれば、ずっとずーーっと生きやすくなり、そして幸せを感じられるようになって、今に満足する瞬間があるのも本当です。

でも、本当にどうしても手に入れたいもの、となると具体的な望みが出てこないのが常でした。

この年末、家族で出かけている時に突然、「あ、わたしここに居ていいんだ」と、自分の存在そのものを肯定されるような感覚を覚えました。

そう思える場所に、今、ちゃんといるんだ、と。

夫と娘と息子と家族で、わたしはその家族の一員なのだ。

わたしは、ただただここに居ていいのだ。

初めての感覚でした。

あたたかく、うれしくて、安心する体感でした。

その体感の余韻を感じながら年末年始を過ごしていて、自分の中でなにかが腑に落ちた気がしました。

私の人生は15年前結婚した時に始まりました、と、以前庭の返信に書いたのですが、人生が始まったと同時に、この15年でそれまでの傷ついてきた自分を癒してきたのだということが、ようやく分かったのです。

傷ついてないフリをしてきた自分に気づいて、癒して、嘘をついてごまかしてきた自分に気づいて、認めて、望んではいけない、と勘違いした小さな子どものわたしに「どうしたいの?」と言ってあげる。

安心する家族がいて、家があって、毎日を普通に暮らせるようになること。

それが小さい頃からの望みでした。 

過干渉で心配性の母に育てられ、いつしか自由に夢を想像することもなくなって、夢なんて叶わない、と、自分の望みや言いたいことに早々に蓋をしました。

そんなことより、家族仲が良くて、家にお母さんがいて、美味しいごはんをみんなでお喋りしながら食べるような、普通がほしかったのです。

安心したかった。笑いたかった。

「ここに居ていいのだ」と、ただ、思えた今。安心して幸せの瞬間を感じながら家族との毎日を暮らせるようになった今。やっと、望んでいいよ、と自分に声をかけられる。そう思えました。

そうしたら、「わぁ...ここからだ」と、明るく視界が開けたようでした。(とは言え、私もう46歳だよ!時間かかったなぁおい、、と泣きそうになりますが(苦笑))

と、ここまで書いて、何度も読み直しするもなんだかスッキリせず一旦離れてみましたら、気づいてしまいました。

これまで私は「望みに蓋をしてきた」と思っていたけれどそうではなく「望むことそのものをとうに諦めたのだ」、だから望みが出てこないのだ、しあわせを感じられるようになった今、これからは望んでいいよ、と思えて視界が開けた気がした。と、思ってここまで書いていたのですが、読み直すうちに、そうではない、と気づきました。

結婚するまで私は母の人生を生きていました。

子どもの頃からいろんなことに蓋をして諦めた側面も確かにあって、だからこそ普通の家庭に憧れたし、普通に育っていれば見たであろう「夢」を見なかった自分に、あまりにも人生の選択肢を知らなかったことに、やり場のない怒りのような悲しみのようなものを感じてきました。

生きててよかった。そう思えたことがまだ一度もないことも、ずっと心のどこかにひっかかっています。

でも、それは今の、大人になった私が思うこと。でした。

子どもの頃の私が本当にどうしても手に入れたかったもの、それは「普通のくらし」でした。

安心できる家族がいて、あたたかいおうちがあって、家にお母さんがいて、お喋りしながら美味しいごはんを食べる。そんな普通の家庭を、切実に子どもの頃の私は望んでいました。

他の選択肢を知らない、とか、夢を見る、とか、そんなことより、ただ普通がほしかった。

わたし「が」それを切実に望んでいた。

そうしてそれは今、叶っている。

叶ったんです。

そっか、子どもの頃のわたしが人生でどうしても手に入れたかったものを手に入れたのか。

そっか、よかった。

そりゃあどれだけ望みを書き出すワークしても何も出ないわけだ。

だって、本当に欲しかったもの手に入れたのだもの。

そこから望みを更新してないのだもの。

この生き方を「望まされた」と思ってきました。

大人になってからの、今のしあわせは自分で選んだけれど、その土台部分は自分で選んでない、と、ずっと思ってきました。

けれど、違った。

ちゃんと自分で望んで選んだんだ。

「あなたは間違ってない」と、フローラさんはおっしゃってくださるけれど、子どもの頃のことは自分で選べなかった、とずっとどこかで納得していなかったのです。

過去は過去だ、と思っていても、「今にいよう」」とどれだけ思っていても、どこかでずっとひっかかっていたものが流れていった気がします。

はーーー、、書いてよかった。

何度も読み直して、立ち止まって、気づけてよかった。

今のわたし、は自分で望んだわたし、でした。

わかっている「つもり」とはこういうことなのですね。

はぁ、、なんということでしょう。

思った通りになっていて、しかもしあわせではないか。

わたしは今、子どもの頃望んだ私ではないか。

そう、わかっていたはずだったけれど、わかってなかった。

なんということでしょう。

フローラさんのおかげで、この庭という場所のおかげで、新年早々大きな滞りが流れた気がします。

ありがとうございます。

あの時フローラさんに惹かれて発信を見つけた自分に賛辞を送りたい。

こうしてフローラさんにメッセージを送れる自分になれてよかった。

庭に入ってよかった。

フローラさん、いつもありがとうございます。

2025年も、フローラさん、そして庭の皆さんに、喜びのきらめきを感じられる瞬間が沢山訪れますように。














【著書】
2024年2月刊行



2022年2月刊行



【妖精の庭】