人生は楽しくしないと意味がない
私がサプライズが嫌いなのには理由があって、それは子どもの頃、朝起きたら母が亡くなっていたことが理由の一つで、他にも母の死と同等に耐え難い突発的な体験が二つあって、これらが今世の強烈な出来事トップ3なものだから、予定調和はつまらないなんて言える人はさぞ幸福な人生だったのだろうと目を細くしてあまり見ないようにしてしまうのです(大嘘)。
先週、パニックになる出来事がありました。ちっとも大したことではないのです。でも、ちょっとでも崩壊の気配を感じるとダメなのです。だから私は、そんな自分と気長に付き合ってきました。
コントロールしないと不安で生きていられない時期が長くありました。今でもその癖が顔を覗かせることがあって、そうなったときの被害者は私ですから、絶対に嫌だ!とカフェのテラスでコーヒーを飲んで過ごします。チルい時間が必要なのです。怠けているわけではない!
自分以外の何かに依存して生きることは本当に大切で、それができるようになってからぐっと人生が敵ではなくなりました。でも、もっと依存を増やしたいと思っています。書くことには確実に依存しています。
専業主婦だった頃、依存と聞くと責められているような気がしたものです。依存とは自分以外の人や物に心を寄せるということですから、当然責めるような意味合いはありません。
私はもっと依存したい。でも、これ以上依存するものが見当たらないのです。暮らしの中の多くは誰かがしてくれますし、仕事だって分業です。子どもももう中学生ですから手がかかりません。お腹が空けば自分で食べますし、朝になれば私が起きなくたって学校に行きます(起きなかったことは一度もないけれど)。
やれやれ、これ以上何を何に任せたらいいのだい?何を愛したらいいのだい?何に助けてもらったらいいのだい?私の人生でもっともしんどい時期はとっくに通りすぎてしまったので、なかなか適当なものが見つかりません。
もっとエネルギー哲学に依存するために、何か姿形を作ろうかと考えます。でもそうしたら宗教なんだよなぁ。
偶像礼拝でチュ?
(これに依存しようとしている)
我が家の娘は私とは正反対で、真剣に話をしていても、目の前を蝶々が飛んでいくともうそっちに夢中です。ちょうちょ。
電車を間違える、堂々と反対方向に歩いていく、だから待ち合わせには間に合わない、物をなくしたのは自分なのに「勝手になくなった」と言う。人生で一度も、財布もスマホも、消しゴムの一個すらなくしたことのない私からすると、そんな人いるの?どうやったらそうなるの?どうやって生きていられるの?なのだけれど、そんな人だからこっちがどうあっても気にしません。ご飯ができていなくても一緒にお腹をぐうぐういわせるだけ、私が理不尽に怒ってもいいよいいよとニコニコ、気を遣っているのではないのです、そういう人なのです。うちの認定講師にも同じタイプがいて、何にも気にならないとのこと。ちょうちょ。そんな二人の共通点は、異性にモテること。確かにね、こんな丸腰で何にでもいいよって言われたら、きっと男性は好きになってしまうのだろう。
予定調和を愛する私にとっては娘の存在自体がサプライズですが、でも、だから親子になったのだと思っています。親子関係は、好きだから一緒にいるわけではなく、良い人間だから一緒にいるのでもなく、たまたまペアになったから一緒にいるだけです。娘にこういう話をすると、ラッキー!いえーい!お母さん離さないから!と言います。ほんっとに、ちょうちょで助かります。
人生は楽しむためにある。私はよくそう言います。
でもきっと、ちょうちょ組はそんなことは思考にのぼりもしないのです。常に楽しいことに目が向いているからです。羨ましいなぁ。なりたくはないけどな!
人生は楽しむためにある、改め、人生は楽しくしないと意味がない。これからは、そっちを胸に生きていこうと思ったラマダン前の夜でした🌕
美しくないと耐えられないのは、ちょうちょを追えないから
今日はGrandir会でした。
また書きます。
人は、自分を見失わないために、健やかに生きていくために、人と対話を重ねるのだと思います。
コントロールのないコミュニティは、作れる。
では、おやすみなさい。
須王フローラ
ドバイの自宅にて
