書くこと


新年おめでとうございます。
本年も何卒よろしくお願いいたします。


12月31日にドバイに戻り、きっとみなさんもその絵を観たことがあるであろう、あのド派手な花火で年越しをしました。
本当にこの国はやることなすことスケールが大きくて、最初はそれについていけない感覚だったのですけれど、今ではもうそれも心地良く感じている自分がいます。


2025年1月1日でドバイ生活が2年目に入りました。
去年は言葉の壁、文化の壁に戸惑うことが多く、生活を作りながら体が中東に合うのを待つ時間でした。
一年経って、いよいよこちらでの生活を本格的に始められそうだと、自分自身を観察しています。



体が土地に馴染んできた2025年は書く年にします。
去年の秋、作家の吉本ばななさんに書評をいただいて、そしてnoteを通じてコメントのやり取りをさせていただいて、書くことについて考えていました。いえ、書くことを待っていました。考えるのはもうずっとしてきたことであって、これ以上書くことについては何も考えることがありません。あとは、書き始めるタイミングだけ。
そして、そのタイミングがやってきた。
それは新年を迎えたからではなくて、書くという行為に対して一つの解を得たからです。




その解を私に気づかせてくれたのは、ライターの友人とバイオリニストの親友でした。
年末にライターの友人が作ったZINEを受け取りました。毎朝彼女が連載しているエッセイ1年分をまとめたもので、そこには一枚のしおりが挟まれていました。
私から彼女に「小説を書く勇気をください」と伝えたことに対しての返答がその記事であるという印です。


そこに書いてあった記事は「ストイックという強欲」でした。そしてしおりには彼女からのメッセージが書かれていました。
「今の自分じゃまだ飽き足らない。その強欲さが創作に繋がるような気がします。共に書く一年にしましょう。」






なぜ書くのかといえば書きたいことが体の中からあふれ出てきて仕方がないからであって、書いてくださいなんて出版社に頼まれなくても、それこそもう20年以上ずっとものを書いています。
なぜ書きたいのか、それは登山家がそこに山があるから登るのと同じで、みんなに知って欲しい何かがあるとか、自分の思いを伝えたいだとか、そういうことはもうとっくにはるか彼方後方にあって、書くことがやめられないから書いている、それだけでものを書き続けています。


そうか、強欲。彼女が言いたいことと私の解釈は違うかもしれないけれど、欲をむき出しにしているとものが書けるのは本当だと思っています。というか、人生全般、欲をむき出しにしていないと動いていかないと知っています。
人は自分を律して生きられないことを責めますが、そんなことは普通のことで、むしろ律するよりもどこまで欲をむき出しにできるかが人生を動かす鍵であると思うのです。


人は会いたい人にはどんなに忙しくても会いに行きます。時間がないなんて言わない。遠くたって関係ない。会いたいものは会いたい。
「わかっているけどできない」なんてのはよくある嘘ですが、わかるかどうかはどうでもよくて、私たちはわかっていることだけにもっと愚直にまっすぐすすめばよいのです。
できないのは、好きが足らないから。できないのは、絶対に欲しいという熱量が足らないから。できないことを嘆くのではなく、欲望を抑えた自分を嘆くとよいと思います。


書くタイミングにきたと言いました。それはもう欲望が走るのを止めないということです。私の快楽を追いかける一年にします。孤独になる一年です。お付き合いいただけると嬉しく思います。


バイオリニストの親友の話はまた次回に。




それでは、今日も良い一日をお過ごしください。
ごきげんよう。




須王フローラ